KiiteWorldを歩く会 By Alice
7 曲 / 26 分 21 秒
「ただいま。」
玄関に入って、いつもの癖で呟いた声は
ただ、目の前に広がるだけのがらんとした廊下に
吸い込まれるように消えていった。
「おかえり」
聞こえるはずがない、
記憶にこびりついているその声が、
頭の中に柔らかく響く。
あの人の葬式が終わった。
身に纏った喪に服すための装いを緩める。
自分の家なはずなのに
日常を送ってきた場所なはずなのに
1人分の空間が空いただけなはずなのに。
あの人がいない自分がどう過ごしていたのか
まるで忘れてしまったかのように
手持ち無沙汰に部屋をうろついた。
どこを歩いても、あの人がいた記憶が邪魔をして
より、いないことを強調してくる。
なんとなく、
共同で使っていた机の引き出しを開いた。
入っていたA5サイズの手帳には見覚えがなかった。
あの人の物なんだろうと、確信しつつ
罪悪感を覚えながらも
適当なページを開く。
『誰かと行きたいとこに全部
私はあなたと行ってみたい』
見覚えのある、少し丸みを帯びた文字が並ぶ。
漢字とひらがなの大きさのバランスがちぐはぐな
癖のあるあの人の書き方。
これまでに2人で行った場所や行きたい場所。
食べた料理や食べたい料理。
着た服と着たい服。。。
1人で過ごした時間のこと。
「こんなもの、いつの間に...」
ページを進めるにつれて、
文字が歪んで読めなくなっていく。
落ちる水滴でインクが滲んでいく。
あの人が残したものが
意味を為さなくなるのが怖くて
必死に涙を拭う。
拭っても拭っても、落ちていく涙と
いつぶりに出すか分からない、自分の嗚咽に
喉を焼かれるような痛覚が、突きつけた。
あの人がいなくなったことが、
やっと、現実になった。
いくら名前を読んでも、話しかけても、想っても、
記憶と、記録の中以外に、
もうどこにもあの人が存在することは無い。
声も、表情も、眼差しも、
何一つ返ってきやしない。
分かってしまった途端、
唐突に頭に浮かんだ。どうしようもない考え。
冷静に手の中のページを1枚1枚めくる。
あの人と過ごした記憶を、
あの人が過ごした記録を、辿って歩こう。
そこに、何も無くたっていい。
あの人に、もう一度、会いに行く。
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